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やとみのこだわり診療とは

敬愛祖父HISTORY

私の人生に大きな影響を及ぼし、そして今も心の中で支え続けてくれている祖父故三宅哲三(内科医、医学博士)の生涯についてお話をさせてください。

やとみ皮フ科外科クリニック院長 日本皮膚科学会認定 皮膚科専門医
弥富祐子

【第一章】苦労の少年時代。医学への思い、そして祖母との出会い

祖父三宅哲三は1901年(明治34年)生まれで実家は故郷愛媛県の五十崎町(現 喜多郡内子町)のあたりで手広く呉服商を営んでいたと聞いています。

よくある話で家が傾き、一家離散の憂き目となりました。姉たちにこれからどうしたいのかと聞かれたときに祖父は<自分は勉強が好きだから、学問をして医学博士になって世の中の役に立ちたい>と答えたそうですが、姉たちから<何を寝ぼけたことを>とそっけなくあしらわれ、そのまま丁稚に出されてしまいました。

祖父は信念の人であったのでしょう。苦労苦学をしてようやく旧制松山高校に入学したころに祖母との縁談があり三宅の家に養子に入りました。

祖母故三宅御代子の実家三宅家は愛媛県川之江市(現 四国中央市)で広い家屋敷を持ち代々医業を営んでおりました。
曾祖父の故三宅一郎は現京都府立医大で医学を学んだと聞いています。約300年の家系図が残っており、私たちの代で19代目と聞いておりますが、祖母が一度だけ、三宅の祖先は関ヶ原の戦いのおりに四国に渡ってきたと言っていたことがあり、まんざら嘘でもなさそうです。

さて、そのような三宅の家でなぜ祖父が養子として必要とされたかといいますと、これもまたよくある話で、祖母の実兄が放蕩三昧の上医業も継がず、勘当同然の状態にあったからです。

【第二章】九州帝大医学部での日々と奇妙な博多弁

祖父は自分にようやく与えられた恵まれた環境に感謝しながら、当時の九州帝国大学に入学し、学資の心配をすることなく、夢であった医学博士への道を順調に歩むべく勉学に励んでおりました。
祖父にとってこの何年間は生涯の中でも最も充実し、誇りに思える日々であったのでしょう。それを象徴するかのように、生涯にわたってとってつけたような博多弁を話していました、たとえば<・・ですたいね>といった調子に。

最近になってわかったことですが、博多弁で<たい>というのはおおむね<です>という意味だそうで、<・・たい>とか<・・たいね>とは言うようですが<・・ですたいね>という表現にはならないようです。
なぜならそれは<・・ですですね>と言っているのとほぼ同じ意味になるからだそうです。
そんなこととは知らず、祖父がこの言葉を口にするたびに、うちに込められた思いが伝わってくるようで、私は祖父の博多弁を、ずっと慈しんでいました。

さて、祖父が無事大学を卒業して自分で研究テーマも見出し教授から了解を得て、研究、診療に没頭する日々を送り始めた矢先のこと、またしても、予期せぬ出来事が起こりました。
曾祖父の死でありました。

【第三章】再びの苦難。祖父一家、九州から秋田へ

曾祖父もさすがに死期が近づいて気弱になっていたようで、勘当していた息子にも甘くなり、この祖母の実兄が家の財産に大分手をつけるようになっていたようです。
祖父の学資にだけは手を出さないという最期の約束をついに破って、広い家屋敷を全て失うことになりました。

このときのことを祖母があるとき突然遠い目をして回想していたことがありました。

<おじいちゃんは決してカフエイで飲むような人ではなかったのに、あのときだけはカフエイでぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきた>祖母のこの一言は私にとって祖父の無念を察するにあまりあるものでした。

祖父はその後大きな方向転換を強いられることになりました。
それまで自身がさんざん貧困の悲哀を経験してきた人ですから、さすがに事態の急転を目の当たりにして、これ以上家族に苦労はさせたくないと思ったのでしょう。

詳しい経緯は知りえませんでしたが、おそらく紹介してくれた人がいたのでしょう、九州帝大での医学博士の道を捨て、急きょ、秋田県の、小坂銅山でにぎわう現同和鉱業の診療所の医師として、秋田にわたりました。
そこは当時ずいぶんと給与がよかったようで一時は羽振りの良い生活ができたようです。
祖父は九州、秋田で5人の子供に恵まれました。

【第四章】秋田での医師生活と戦争。40歳の学位論文

温暖な九州から一転して雪深い秋田の地に移り、そこでも祖父は文字通り明治の人の強さ柔軟さを発揮して診療に打ち込みました。
冬の往診はソリで行き、行く先々で暖をとるための振る舞い酒を断り切れず、どうも祖父はそれほどお酒が強くはなかったようで体調管理が大変だったようでした。
スキーも覚えて子供たちとスキーをする写真が残されています。

さて、秋田での平穏な生活も徐々に時代の変化により脅かされてきました。

つまり、日本が軍国主義につきはしり、世の中がきな臭くなってきたのでした。
戦争が本格化すれば祖父は早晩軍医として召集される身であることを知っていたのでしょう。
お国に身を捧げる前にどうしても祖父には叶えておきたい夢がありました。それは、幼いころに誓いを立てた医学博士になるという夢でした。
幸い10年間勤続の功績が認められて診療所から1年限りの有給休暇を与えられた祖父は家族全員を秋田に残して単身九州帝大に戻りました。

祖父が40歳のころでした。
祖父にとって文字通り最後のチャンスだったのでしょう。
大変な勢いで実験データを積み上げ、学位を取得し、秋田に戻りました。
当時研究生活を送っていた祖父の写真があります。丸めがねをかけ、ニコリともせず黒板を背に写っていました。
黒板には難しい化学式が無数に板書されていました。
祖父の学位論文のタイトルは詳しくは知らないのですが、法医学の分野で、確か重金属などの中毒を血液から測定同定していく方法についてのものであったと理解しています。

秋田に帰ったときの祖父は見る影もなく痩せこけていたそうです。
幸いなことに戦地に召集されることは免れ、秋田の診療所でさらに診療に打ち込む日々を送りました。

【第五章】終戦。祖父一家、故郷愛媛へ。バラックの県立病院の院長

終戦を迎え、日本の社会や貨幣価値なども一変し、戦後の暮らしは祖父母にとって子供5人の生活教育など決して楽なものではありませんでした。
そんな折、さすがの祖父も里心がついたのでしょう。50歳を過ぎて故郷愛媛に帰ることになりました。

これも紹介してくれた人がいたのでしょう。名目上は県立病院の院長としての職でした。
松山市の愛媛県庁まで足を運びそこで話を決めてしまったようです。
つまり自分が実際に赴任する地(愛媛県南宇和郡城辺町)へは行かずに決めてしまったのでした。

さて、実際に赴任してみてびっくり。県立病院とは名ばかりでバラックのような小屋に医師が二人茶をすすっていました。

そもそも祖父が赴任した城辺町(現 南宇和郡愛南町城辺)は、愛媛と高知の県境(宿毛市など)に近いところにあり、鉄道が通っているのは、宇和島市までで、そこからつづれ折りの道を延々とバスに揺られて4時間近くかけてたどり着くようなところでした。

この地理的条件を考えても当時この地域が医療過疎の状態にあったことは明らかであり、最低限の緊急手術などができる総合病院の創設は急務であったと思われます。
もちろん県がそこまで考えて祖父に院長職を依頼したわけではなかったはずですし、祖父もこれでは話が違うと職を早急に辞退することができたと思います。
しかし、祖父は毅然としてバラックのような県立病院の院長として、その仕事を始めました。

【第六章】深刻な医師不足との戦い。そして森先生との出会い

祖父が最初にしなければならなかったのは、まずお二人の先生に辞めていただくことでした。
このことに関しては問題なかったようですが、大変だったのはそのあとでした。(このような表現を使って地域の方々には申し訳ないのですが以下ご了承ください)つまり、当時はただでさえ医師が不足していた上に、このような地理的条件の悪いところに来て下さる先生がいなかったのでした。
きわめて深刻な医師不足の状態の只中に祖父はおかれてしまいました。

さて、祖父の機動力が発揮されるのはこれからです。
祖父はとにかく医師を求めて、文字通り東奔西走しました。来てくれる医師のいそうなところならどこへでもかけつけました。
広島などへも行ったと聞いています。最終的には母校である九州大学に頼らざるを得ず、祖父の大学時代の同級生が現久留米大学の小児科の教授をしていたため、久留米大学まで出向いて行ったときのことです。
祖父はなんとか小児科医を医局から派遣してほしいと懇願しました。

もちろん教授である元同級生の返答はノーでした。
しかし、医局内では次のような会話がなされていたということです。
<私の同級の三宅君が医師を派遣してほしいと来ているのだけど、私は断ったのだが三宅君が医局の前に座り込んでどうしても帰ろうとしないのだよ。もし君たちのなかに三宅君のところに行ってもいいという者がいれば私はあえて止めないよ。>・・
つまり、祖父はある意味強硬手段に打って出て、医局の前に座り込んでしまったのでした。

たった一人ですが、この祖父のなりふりかまわぬ熱意に心打たれた若き医師がおりました。
私が行きますと教授に申し出てくださったのでした。森純一郎先生でした。森先生は当時30代半ばの前途洋洋たる青年医師でしたが、ご自身も病のため少々膝がご不自由なようでした。

この、祖父より2世代近く若い先生が以後祖父のきわめて強力な部下としてともに病院づくりに多大な貢献をされることとなりました。実は医局内での話し合いや祖父が座り込みまでしていたことは、森先生が後に地元の医師会誌に<三宅先生のこと>というタイトルで回想録を執筆してくださったために知りえたことでした。

【第七章】県立総合病院創設へ向けて奮闘。つぎはぎズボンの院長

その後も医師不足の問題は常に解消されることはなく、祖父は自分自身のことよりむしろ若い医師やいわゆる僻地に赴任してくださる先生方の給与や待遇の改善、病院設備の拡充などを求めてたびたび県庁に陳情に行っていました。
当然のことながら看護師不足も重要な課題でした。
祖父は県に働きかけ、病院付属の看護学校までつくりました。元来勉強好きの祖父ですから、嬉々として自ら教壇に立ち内科学などを教えていたようです。

時には労働争議のようなことも発生し、院長が一番の高給取りなのだからと突き上げられることもあったようですが、そんな時にはいつも森先生が50代の祖父と若い医師、職員等の間に立ってパイプ役のような務めを果たしてくださっていたようです。
職員の方の多くは地元の方であったと思います。

祖母は、一本気な祖父のやり方が地元にうまく受け入れられるように陰に日向に一生懸命支えていたようでした。
祖父が病院づくりに奔走していたころ祖父母夫妻は5人の子供たちを次々と大学に出さなくてはならず、教育費もかさみ、祖父の給与は決して高給ではなかったらしく、祖父はつぎのあたったズボンをはいて出勤していたと聞いています。

また、お金に困窮して町の人からやむなく借金をしたこともあったようです。
祖母は美しい人でしたが、老いるにまかせ、紅ひとつさした姿を見たことはありませんでした。もちろん自分の着物一枚新調するわけでもありませんでした。

文字通り筆舌に尽くしがたい苦労であったと思われますが、おそらく祖父にとっては幼少期の夢<自分は勉強が好きだから、学問をして医学博士になって、世の中の役に立ちたい>をまさしく実践できていたわけですから、丁稚に出されてから旧制松山高校にたどり着くまでの苦労や屈辱に比べれば、むしろやりがいの方がはるかに大きかったと思います。

【第八章】病院の完成と初孫(私)の誕生

祖父が還暦を迎えた年に私は祖父の病院で生まれました。
初孫でした。とりあげてくださった産婦人科医師は久留米大から出向していた先生でした。
このころには病院の形もかなりできあがっており、森先生のご尽力もあったのでしょう、久留米大から産婦人科などいくつかの科の先生が交代で来てくださるようになっていたと思います。
私が物心ついたころには県立の総合病院として白い立派な建物が完成していました。

いつも私たちは<おじいちゃんの病院>と呼んでいましたが、<愛媛県立南宇和病院>が正式な名称でした。

ところで城辺は風光明媚な良い町でした。私は小学生のころから休みの都度に訪れていました。私たちが行くと祖母が<よう来た、よう来たなあ>とうれしくて仕方がない様子で満面の笑みで玄関まで出迎えてくれたものでした。

町から少し出ると美しい宇和海が広がり、祖父は釣りが好きだったのでときには祖父の釣ってきた魚を祖母がすぐにさばいて刺身にしてくれたり、鯛やら伊勢海老やら、いまにして思えば本当に贅沢なものを当たり前のように食べさせてもらっていました。
私は海や水泳が大好きだったのでよく泳ぎにも連れて行ってもらいました。

【第九章】祖父退職と叙勲

祖父は79歳まで院長職を務めた後勇退しました。
国の一県一医科大学構想により昭和48年に地元の愛媛大学にも医学部が設置され県立南宇和病院も大学の関連病院として定期的に医師が派遣されるようになりました。

つまり、祖父のあれほどの医師集めの苦労は過去のものとなったわけです。
慣例的に、祖父は愛媛大学の非常勤講師の肩書を得て、時折大学で講義をすることもあったようです。
秋田の銅山労働者を多く診療し、当時から塵肺などの職業病を数多く診てきた経験からか、特に呼吸器内科を得意としていたようでした。

祖父は在職中に県の功労賞を授与され、退職の約2年後、私が医大の1年生のときに、皇居で勲三等瑞宝章を授与されました。

勲三等というのは当時ある程度の業績をなした大学教授クラスの人に授与されるのが一般的だったとかで祖父は在野の人ですから異例のことだったと聞いたことがあります。
祖母は脳外科医となった長男から京都で立派な着物を誂えてもらい、祖父とともに皇居での授与式に臨みました。祖父母宅には勲章を胸にさげた堂々とした祖父の写真が飾られていました。

【第十章】祖父の隠居生活と、森先生へ小学生からの勲章

祖父がまだ在職中に、少しでもその苦労話や自慢話を聞いておこうと<おじいちゃんは、学歴があったのだからどうしてもっとほかの仕事を選ばなかったのですか?>と尋ねても<家族を養わないといかんかったからな>と答えるばかりで、功労賞のことについては<おじいちゃんだけが県知事から賞状を読み上げてもらって、他の人は以下同文やったたいな>といった調子で少々こちらが拍子抜けするような話しか聞けませんでした。
祖父の口からは一度たりとも苦労話やヒロイックな話は出てきたことがありませんでした。

祖父は退職直前まで<勉強することがたくさんあって毎日3時間机に向かっても足りないくらいだ>と言っていたそうです。

退職後に高齢者向けの病院から院長にと請われたようですが、いわゆる名義貸しであったらしく、診療などの実務をさせてもらえるのならお受けするがと断って、あとは潔く、香川県で開業していた次女夫妻のそばに建てていた粗末な隠居所で余生を過ごしました。

祖父が院長職を退いた後、森先生が院長を務め、続いて長年産婦人科医として貢献されていた同じく久留米大の白垣先生が院長になった後は、代々愛媛大学の先生がその職を務めることになりました。
森先生は後に、<私には三宅先生のような勲章はないが、地元の小学生がぼくの将来の夢は森先生のような小児科医になることだと作文に書いてくれたことが自分の勲章だと思っています>とおっしゃっていたそうです。

森純一郎先生は退職後故郷の九州に戻られました。しばらくは年賀状のやりとりをしていましたが、その後久しくご無沙汰しているのでお元気でおられるのかどうかわかりません。

しかし、森先生が祖父のことを書いて下さったように、私も森先生の医師としての正義感あふれる行動と偉業についてここに書き記すことを祖父の孫として先生への心からの感謝と尊敬の気持ちを込めてご許可願いたいと思います。

【第十一章】祖父の闘病生活と、最期の勇姿

私が医大の3-4年生のころに、祖父は膵頭部癌と診断され、腸の通過障害を軽減するための姑息的手術だけをうけて後は自宅で静養していました。
現役を退いてからは、次女夫妻の診療に口出しをするわけでもなく、病が見つかっても良き患者に徹して実に潔くその余生を過ごしました。

祖父が亡くなったのは昭和63年2月、私が医大の5年生の冬でした。享年86歳でした。
祖父が危篤だというのであわてて見舞に駆けつけたところ、祖父は私を見るなり何事もなかったようにベッドから起きだし、ガウンをはおって書斎に向かい、おもむろに万年筆を取り出し結核学会に送る書類にサインをしていました。

いつものように祖母のことを叱っていたので、これなら心配ないと思って大学へ戻ったところその後間もなくして再度危篤の知らせがはいり駆けつけてみると今度は本当にこん睡状態で叔父たちが懸命に手当をしていましたが間もなく息を引き取りました。
実はこんな私ですが祖父母にとっては8人の孫の中で特別に自慢の孫でした。
だからあの時の祖父は渾身の力をふりしぼって私に医師としての最後の勇姿を見せるとともに、医師にとって最後まで学問は大切ということを伝えたかったのではないかと思います。

【第十二章】大好きな祖母最期までがんばる

祖父の看病、逝去と涙も見せず気丈にふるまっていた祖母でしたが、荼毘に付された祖父の遺骨を見た瞬間にまるで崩れるように涙とともによろよろと倒れそうになり、周りの家族が倒れる祖母の体をとっさに抱きかかえるように支えていました。

祖母も祖父の後を追うように逝ってしまうのではと、皆が心配していましたが、その後も明るく生きてくれて、私の医大の卒業式や結婚式にも祖父の遺影を胸に出席してくれました。

祖母には実兄の失態や時代に翻弄されながら祖父の仕事、志を全うさせることに精いっぱいで子供たちに十分なことがしてやれなかったという思いがどこかにあったように思います。晩年はその償いを一生懸命しようとしていたようでした。

また、次の世代である私たち孫のことをずっと気にかけていました。祖父の死から約10年、祖母の90歳の誕生日を家族が祝えるようになんとか頑張ってくれたのでしょう。
誕生祝いを待つようにして静かに息を引き取りました。

祖母も癌を患っていましたが最期まで苦しいの一言も言わず、夜間のおむつを嫌がる祖母を娘たちがいさめると<まあ、そう言いなさんな、死ぬのも楽じゃあないのだから>と、明治の人には一生かなわないなと思わせる台詞を残して明るく逝ってしまいました。
平成9年の6月でした。

【あとがき】

私の宝ものである祖父三宅哲三と祖母三宅御代子の生涯について少し身内を美化しすぎるとは思いつつも一度は記録に残しておきたいとずっと考えていました。
今回、ホームページの作成を依頼したBOstudioの桐尾さんから思い切ってホームページ上で物語風に書いてみてはどうですかとご提案があり、勇気づけられて執筆してみました。森純一郎先生のような方がいらしたことも書き残しておきたいとずっと思っておりました。

近年、医師や医療についてのとらえ方は少々混乱しているように思います。
医療崩壊が叫ばれて久しい日本ですが、WHOの評価によれば、日本の医療はその費用対効果(国民の健康への寄与度)においていまだに世界一であったと記憶しております。
それは根底に、日本の医療を支える多くの名もない医師たちの、ある意味自己犠牲的ともいえる、単純に金銭とは異なるものを喜び誇りとする信念や志が、今に至るまで生きているからではないでしょうか。

平成22年5月に記す

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